一九六五年五月二十六日。有頂天になっていた私に、突然のアクシデントがやって来た。余勢をかって、次の公演地への夢に胸ふくらませていたところへ、四日後の予定地コロンビアが政情不安に陥り、当分興行活動が出来ないという。

外国では、契約書という紙切一枚が絶対的なもので、日本のように口約束で仕事をすることは稀である。ただし、

一、天災

二、戦争

三、政治的暴動

が起きた時のみ、この契約書は無効となるつまり、私の契約書は反故同然、夢は見事破れたわけである。その翌年コロンビアに行った際、前記の条件に該当しない、相手の一方的な契約違反で裁判にまで発展して、数年後忘れかけていたところを勝訴し、相手方から家を四軒せしめるという、当の私にも信じ難い経験をしたが、それはまた後でゆっくり。

南米の諸事情に詳しいサルセードと記者のベネ氏は、明日にでも日本に帰るべきだという。けれど、ハイそうですかと素直に帰るような私ではない。突っ張って生きていたのである、あの頃は。

日本では、これから数ヶ月私が送るニュースをマネージャーの小沢氏(現小沢音楽事務所)と、芸能界の大物記者K氏がマスコミに流し、帰国までには“私の計算”ではスター誕生という筋書きが出来ていたのである。それにこれだけチヤホヤされ、(※野球スタジアムまで満席になった。)また日本でひっそりと歌う自分を考えたくない。カラカスでの収入の一ヶ月分を稼ぐには、日本なら10年以上はかかる。そして自分を認めてくれなかった(と勝手に思い込んでいたのだが)日本と決別したいという思いがあった。

タレントの涙物語を私は好まないが、日本を発つ日に死んだ父の葬式にも出られなかった私は、もっと成功するまでは帰れない、という固い誓いもあった。それに私は勝手に、日本中の期待を一身に背負って、はーるばる南米にやって来た歌手のような錯覚をしていた(ああ、思い出しただけで顔が赤くなる)。

心配顔のサルセードとベネ氏に送られその三日後、知人とてないメヒコへと旅立った。五月二九日、カリブ海の太陽もまだ上がらぬ早朝であった。

五月三十一日。乗り継ぎを重ねて、昨夜遅くやっとメヒコ市に着いた。疲労に加えて高地にある街のための酸欠で気分が悪いが、そんなことでのんびりホテルで休むわけにはいかない。こんなことになるとは知らず、日本に送金したばかりの私手許には三百ドルほどしか残っていないのだ。

このラテン音楽の都市でベネズエラの夢をもう一度と、紹介状片手に新聞社「エクセルシオル」「シネ・ムンディアル」の門をたたいた。お目あての二人の記者は五時ごろにしか来ないと言われても、二時から両社の間を何度も往復、「まだか、まだか」とせまる。

運悪く今日会えず、明日まで待つ不安を考える。そんな風にしてやっと会えたメヒコでの最初の人が「シネ・ムンディアル」社のトルヒージョ氏であった。

一九六五年といえば、東京オリンピックや皇太子殿下御夫妻の訪墨の年であり、パンチョスやディアマンティスの日本での成功がメヒコ人の記憶にまだ新しくちょっとした日本ブームであったから、私もまんざら招かれざる客ではなかった。

その夜連れて行かれたのは、売り出し中だったメヒコの男優ホルへ・リベーロ--------------

今ではメヒコを代表する良い俳優になり、ハリウッドにも進出して来た---------------------

と、ハリウッド女優ルーシー・ベガの共演作品発表レセプションで、ここトルヒージョ氏が

「カラカスの「エル・ショウ・デ・レニー」出演した日本のヨシローが、二人のためお祝いにかけつけた」

と一芝居うって紹介してくれた。私と同じ野望を抱いた他国からの歌手にあふれるこの国では「日本からのスター」などと紹介しても月並みすぎ、前述のような具体的な紹介の方がいいんだと、彼がそっと説明した。「なにしろ自称スターが多すぎてね」とニヤリ。

いやがるふりをする私に、あえてアルバロ・カリージョのヒット作二曲を歌わせ、それが伴奏とよく合わず、“うまく歌えてない割”に拍手が多かったのは、ちょうどカリージョの芸能生活何十周年記念のショウをあるクラブでやっていて何かと話題の人だったため、とは後で知ったことである。

すっかりメヒコの夜に酔った私は、朝からの空腹を満たすべく、残されたオードブルに最後までしがみついていた。トルヒージョ氏は、調教師のように私を二人の俳優にぴったりくっつかせ、いつも写真におさまるよう気を配ってくれたがその翌日から新聞や雑誌に載ったのはもちろんである。