1965年4月28日、21時過ぎ・・・私はカリブ海上空を飛ぶヴァリグ航空の乗客の一員だった。

皿洗いをしながらでもラテン音楽の本場で歌ってみたいというのが、プロの歌手になってからの私の望みであったが、それが皿洗いどころか、間もなく到着するベネズエラのカラカス空港では、私のために大勢の報道関係者が今や遅しと待ちかまえているはずなのである。この機会をもたらしてくれたのは「コーヒー・ルンバ」で知られるベネズエラのスターで前年、つまり東京オリンピックの年に来日したエディス・サルセードである。

「こんな夢みたいなことがあっていいのだろうか・・・・」

つい3日前、東京を発つ日に父が亡くなるという不幸もしばし忘れ、新しい期待と不安にすっかり落着きをなくし、鎮静剤を飲み続けたが一向に効かない。

この日までの6ヶ月間というもの、私と契約したカラカスの芸能エージェントから、現地の新聞や雑誌の切り抜きが毎週のように送られて来た。それには「東洋のスーパー・スター、カラカスに来たる」「東洋のヌエバ・オーラ(ヌーヴェルバーグ)ヨシロー」「ヨシローのレコードがトーキョーのラジオから流れない日はない」といった90パーセント以上のウソででっちあげられた私に関する記事が出ており、それらをみるにつけ私は顔面蒼白になって、うろたえるのだった。

間もなくカラカスのマイケティア空港に着陸とのアナウンスが、ポルトガル語と英語で流れた時、あの背の高いスチュワードに思いっきり文句を言ってやりたくなった。「カラカスに着く30分前には知らせてくれるように。着替えの都合もあるから」としつこく頼んでおいた上、つい先程も「トダビア(まだ)・カラカス?」と方言スペイン語で訪ねたら、先方もブラジルなまりで「トダビア」と答えたではないか。しかし、文句よりもなによりも、一刻も早く着替えねば・・・・・・

「タラップを降りる時は、必ずキモノを着てくるのよ、新聞社のカメラマンたちが待ちかまえているから。それに、あなたはスターであることを忘れてはいけないわ」

と、私がスターでないことを自信をもって証明するようなエディスの手紙を想いだした。今夜のために、三波春夫先生と張り合っても負けない程派手な着物を作り、スターらしくタラップを降りるポーズまで何日も前から練習したのである。

若かったといえばそれまでだが、空港での晴れ姿を目に浮かべては、せまい自分のアパートで一人感激し、いつしか涙がはらはらとこぼれる始末。東京でのステージに立てば、最速南米の大観衆を前にしたような陶酔にひたり、これまた泣けて仕方のない私だった。

これも、ステージに立つ人々の陥りやすいナルシズムのなせる業であろう。

いわゆるスター病だったのである。

話がそれてしまったが、ベルト着用のまま、機内備品の毛布でうまく隠しながら着物に着替えることがどれだけ至難の業であるか、ご想像願いたい。

飛行機はすでに着陸していた。通路に立つ乗客の無遠慮な視線などかまってられたものではない。

着替えがすむと、今度は欲ばって制限以上に持ち込んだ荷物をどうやって持って降りるかが問題だった。ショルダー・バッグを十文字に、両手にひきずるように下げた紙袋には、今脱いだばかりの洋服がねじこんであった。やっとよろけながら立ち上がった私を、スチュアードは急がせる。これではポーズどころではないではないか。

おそる、おそるタラップに立つ。外は暗い。フラッシュなどあらばこそ。

税関への道のりは長かった。夜とは言え、南米独特のべとつくような暑さには、みるみる着物を濡らし、肌にまといつく。下げた紙袋のひもが切れ、押し込んだ靴がころりと落ちる。帯はゆるみ、胸ははだけ、裾はひきずり・・・・・・・迎えのサルセードやマネージャーは、そんな私の姿を見つけるや、顔色を変え、歓迎の抱擁もそそくさと車に私を押しこんだ。カメラマンもいっしょになって、この哀れな姿をロビーの客の目から隠すのに精いっぱいで、写真を撮るのなどを忘れていたようだった。母親に手を引かれれた女の子が「ママ、あのチニート(中国人、ラテンアメリカでは東洋人の総称)は、一体な何してるの?」と不思議そうに訪ねていたのを覚えている。このように、空港でのインタビューは大失敗。