皆さん、日本ラテン界を代表する歌手のYOSHIRO広石をご存じだろうか?私が初めて彼のコンサートを観た時の衝撃は忘れられない。キューバで開催されたボレロ・フェスティバルにYOSHIRO広石が日本から招待された年、偶然キューバに滞在中だった私はアメリカ劇場へと足を運んだ。出演前にチラリと彼の姿を拝見した時には、小さな体格だなあと思っていたが、彼がステージに立った時の姿はやけに大きく見えた。彼が登場するや否や「ヨチロー!」の大歓声で会場が騒然となったことからしても、彼の来訪を待ちわびていたキューバ人が多いのが伺える。日本人とは思えない濃厚なラテン臭に加えて、流暢なスペイン語でのMCで観客を虜にする。そしてラテン人のツボを熟知した盛り上げ方で、気が付くと観客は総立ち、当然ラストにはアンコールの声が鳴り止まない・・・耳の肥えたファンが多いキューバでこんなにも熱いライブを繰り広げられるアーティストはなかないないだろうと感激したのを今でも覚えている。そんなYOSHIROも歌手生活53年目を迎え、6年ぶりのアルバムが先月リリースされた。日本のファンに聴いてもらいたいとう彼の願いを込めて、このアルバムではラテンの曲をあえて日本語で歌い上げている。ラテンの曲には、陽気なリズムでも実はシリアスな内容の歌詞というのが案外多い。歌の本髄をもっと聴き手に分かってもらうためには日本語で歌いかけるべきだと考えたYOSHIROは、本アルバム中で14曲中6曲を日本語で歌っている。しかも同じ楽曲をスペイン語、日本語と2つのヴァージョンで歌っているので、両方の歌詞で聴き比べができるという彼のこだわりが入ったアルバムだ。さらに注目なのがキューバの歌姫オマーラ・ポルトオンドとのデュエット「愛の奇跡」。何度も共演をして深い信頼関係を築いたオマーラとYOSHIROとの息がピッタリ合った歌唱は聴き応え十分。この他、キューバ、マイアミ、ベネズエラ等海外のバンドをバックに熱唱したナンバーやグルーポ・チェベーレのリーダー、伊藤寛康率いる日本人精鋭メンバーとの共演と、ハイクオリティなサウンドで、さすが大御所の貫禄が伺える。ラテンファン以外の幅広い人々にも聴いてもらい、素晴らしいラテンの曲を知るきっかけとなってくれたら嬉しいと本人は語っていた。

YOSHIRO広石、3年ぶりの大奮闘!
ハバナ 黄金のボレロ国際フェスティバル

・・・そして待ってましたと登場は、日本のラテン音楽の大御所YOSHIRO広石、本フェス3年ぶりの登場である。彼が歌い出すと会場中が反応し歌う。2曲目では客席はほぼ総立ち状態で踊りだす。3曲目は「トゥ・メ・アコストゥンブラステ」をピアノ伴奏のみで披露。途中、4ビートのリズムを混ぜるピアニストにすかさずスキャットで反応と、流石のテクニシャンぶりである。キューバの中にかなりの固定ファンを持っていると思われるYOSHIROは、外国人アーティストとしては別格の存在である。

YOSHIRO広石のデカいスケール
「歌手生活50周年ライブ」レポート

日本のラテン音楽界にその名をとどろかすベテラン歌手、YOSHIRO広石が、歌手生活50周年を記念して、去る10月15日にコンサートを行った。その模様をグルーポ・チェベレやサルサ・スウィンゴサなどでお馴染みの歌手、岩村健二郎氏にレポートしていただいた。YOSHIRO広石に初めて会ったその昔、すぐにこの稀有な大先輩を知らなかった自分を恥じた。ラテン歌手YOSHIRO広石は内田裕也や坂本九に並ぶどころか、自らのスタイルを「本場」で認めさせた音楽史上の傑物だ。「SUKIYAKI」が全米1位の頃、YOSHIRO広石はすでにベネズエラで知らぬものがいないほどの大スターであったし、ウッドストックの頃、YOSHIRO広石はアルゼンチンで、かのアストール・ピアソラとデュオで日々歌っていた。その後の北・中南米、日本、ロシア、東ヨーロッパ、中央、東南アジアすなわち全世界での瞠目すべき活躍は今度是非本人に伺ってみて下さい。最高に面白い話が聞けますよ。今年は歌手生活50周年、ということで記念コンサートをヤクルトホールで行った。ラテンスタンダードの「キューバの夜」などから始まり、アレンジの光るボレロの「蘇州夜曲」、ソン・アフロ「りんご追分」などの“アジア・ラテン”、さらにはケニヤやフィリピンの楽曲の奇手なども登場し、これはまさに音楽のシルクロード(やぁー!)だ。マリンバの塩浜・宍倉ペア、ベースの菰淵樹一郎、ヴォーカルの川西渡彌都古、ダンサーのヒマグア、そしてオルケスタ・デ・ラ・ルスのNORAと、次から次ぎへと友情出演も続き、TOKYO SALSABORのぬかりない演奏のもと、あっとゆう間に一部二部を見せきってしまった。途中大爆笑のMCもすばらしかったが、興行全体に漂うYOSHIRO 広石独自の音楽世界は特筆すべきだろう。日本語のインプロビゼーションで延々観客を煽るサルサ、「赤とんぼ」を導入部にしたアフロ・ジャズ版「サマータイム」など、ジャンルに当てはめ考えるのをやめたくなるような放縦さ加減は、長年インターナショナルな現場を経て日本に帰国したYOSHIRO 広石の「外からの視点」がなせるワザなのだろう。ところどころ、そのスケール感のデカさが余剰となって溢れていて、観る側を落ち着かせない。またそれが「人となり」なところが、アーティストです。感服の至りでした。

EVENTO

YOSHIRO広石の歌手生活50周年コンサートに足を運んだ。ラテンアメリカの歌をうたって半世紀。その記念の芸術際参加公演。「絢爛豪華すぎる舞台ではないか」という心配は無用だった。この節目のショーをリラックスした雰囲気で淡々と進めていった。いつもYOSHIROの舞台は、合間のトークがまた楽しい。海外での活躍、そして舞台裏に巻き起こった爆笑と驚嘆の事件の数々。50年の道のりを回顧しながら、YOSHIROは、いつもより少しだけ多めに語った。中南米で活躍しはじめる前YOSHIROは大手レコード会社と専属契約を結んでいた。紙一重のところで「ヒット曲」に恵まれない、YOSHIROはそういう地位にしばらくいたのだ。日本の「歌謡界」に見切りをつけた彼は、「海外雄飛」を志す。初の渡航先となったのが石油ブームに湧くベネズエラ。ここから「ラテン歌街道」をひたすら走ることになる。ベネズエラでテレビの準レギュラーとなり、アルゼンチンでピアソラと共演し、コロンビアではマフィアに追われる身となり・・・。その逸話は、本誌の前進「中南米音楽」に連載され、多くの人々に愛読された。その45年後。小説もおよばぬ壮絶な事件をくぐり抜け、南北アメリカ大陸を縦断し、聴衆を開拓したYOSHIRO。もし日本の「歌謡界」で「ヒット」を得ていたら、こうはならなかったはずだ。いつもながら関心するのは、YOSHIROのスペイン語のすばらしさだ。歌を聴いていればあたりまえのように感じてしまうけれど、ときおりハッとさせられる。YOSHIROは、響きのよいスペイン語に、心を込めて語りかける。この人が歌うからこそ、多くのラテンアメリカ人の心に届いたのだ。それは、英語で歌っても、日本語で歌っても同様だ。長年歌いこんだラテンスタンダードを、YOSHIRO自身による訳詞をまじえて歌う。日本のヒット曲を、彼自身のスペイン語訳詞で歌う。そして今回は、フィリピン、中国、ケニアの歌もうたってくれた。「世界の民謡をまた勉強しはじめた」といい、「自分の引退は聴衆が離れるとき」と宣言したYOSHIROは満場のファンの前に、力みも堅さもいっさい感じさせない15曲を歌いおおせた。アンコール曲に選んだのは、とっておきの親密なボレロ。世界中に残した軌跡に思いを馳せ、その魂を声に託して燃やしつくした一晩の余韻を、確かめ、いつくしむように、YOSHIROは歌った・・・「だから、そっと。明かりを消して」。会場は静かな拍手につつまれた。エプロンステージの最前部に歩みでると、YOSHIROは膝をついて深く頭を垂れた。その姿は、祈りにも似ていた。(10月15日 ヤクルトホール)